臼井甕男氏の人生と鞍馬山での目覚め|安心立命が指針の独自の哲学体系

レイキ創始者である氏は岐阜県山県郡谷合村で生まれ、幼少期に苦労しながらもアメリカや中国など海外遊学を重ね、体験と学びを深めました。
大変な努力家であり読書に時間を注ぎながら多彩な職遍歴を経ました。
会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書、布教師など多種多様な職業だったと言われています。昨今で例えるならベンチャー起業家と言えるでしょう。
やがて、「人生とは何か?」という大きなテーマを探求するようになりました。
いつしか悟りの境地を求めるようになり、京都の禅寺で3年ほど修行に入ります。しかし、周りの皆のように結果を出せない自分に苛立ち、住職に聞きます。「どうすれば悟れるのか?」
住職の答えは「一度死んだらわかる」というものだったそうです。
その言葉を受けて、臼井甕男氏はまだ雪の残る京都の北にある鞍馬山で断食瞑修行に入りました。3月はまだ冬。決死の覚悟で入山中に入り21日目の深夜に脳天をつくような衝撃を受けて気絶しました。
やっと死ねたと思ったのも束の間、すでに世は明け始め朝焼けの光を感じながら心身が宇宙と一体になった状態で生きていることを確信し、ついに求めていた「「安心立命」の境地に到達した喜びに歓喜しました。1922年3月の出来事です。
臼井甕男氏は、求めていた境地に到達した喜びに小躍りしながら山を駆け降りる途中で木の根(石とも言われる)に躓き、大怪我をします。体力も落ちている上の怪我の激痛に耐えかねて、思わず手を当てたところ、痛みが消えていき傷口も塞がっていきました。(驚きと共に今世の生きる目的、天命を感じた瞬間がこ出来事だったと後世に伝わっています)
臼井甕男氏は、早々にその次の翌月の4月に、東京の青山原宿に移住し臼井霊気療法学会を設立し、多くの人々の治療と霊気療法の講習を行いました。
靈氣療法の教えの指針を定め、「第一に心を癒す」「第二に肉体を健全に」「第三は人間自体を壮健に」を軸にして指導をスタートしています。出発点から生き方を変える指導を行い、病気治療が主目的ではありませんでした。
目指した世界が「自他ともに幸福を増進」=全ての人の幸福をもたらす=でした。
学会設立の翌年、1923年9月の関東大震災の時は、東京市内を巡って多くの人を救療し、その後、1925年2月に学会を中野に移転し、約60ヵ所の支部が各地に開設されるなど、急速な勢いで霊気療法は広まりましたが、惜しくも1926年3月9日、旅先の広島県福山で逝去しました。
霊気療法の普及を始めて5年目に入ろうとしている矢先の死でした。死因は脳梗塞、脳溢血と言われています。

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